【イベントレポート】人的資本経営の実践:従業員エンゲージメントと企業価値を向上させる方法
人的資本経営という言葉は今や広く知られるようになり、多くの企業がISO30414の導入や、有価証券報告書における非財務情報の開示義務化といった制度対応を進めている。しかし、本セッションで展開されたのは、そうした形式的な議論ではない。AIの台頭や流動化する労働市場の中で、 組織と個人の本質的な関係性をどう再構築し、経営者はどう変化していくべきなのか。数々の組織変革を主導し、持続的な企業成長を牽引してきた経営陣による、実践的な議論をお届けする。

(写真 左から)
〈Facilitator〉
◆片倉 正美|EY新日本有限責任監査法人 シニア・エグゼクティブ・アドバイザー
EY新日本有限責任監査法人の理事長を歴任後、現在はシニア・エグゼクティブ・アドバイザーとして研修や講演など対外活動を担う。
〈Speaker〉
◆大野 俊一|株式会社リンクアンドモチベーション 取締役
PwCで監査・コンサルティングに従事後、創業間もないリンクアンドモチベーションに参画。「モチベーション」にフォーカスした組織人事コンサルティングを推進し、人的資本経営の最前線を走り続ける。
◆仙石 実|南青山アドバイザリーグループ株式会社 代表取締役
監査法人トーマツを経て独立。会計事務所グループを率いる傍ら、仮想株式(ファントムストック)の仕組みを応用したSaaSツール「エンゲージメントストック」を開発。AIとデータを駆使し、組織のエンゲージメントを可視化する次世代の経営を提唱する。
◆中村 亨|日本クレアス税理士法人 代表社員
デロイト トーマツ出身の会計士。独立後、25の会計事務所をM&Aで譲り受け、650名規模のグループへと成長させた。理念浸透のためにスキル研修だけでなく「あり方研修」を自ら開発・実践する先駆的な経営者。
◆和田 成史|株式会社オービックビジネスコンサルタント 代表取締役社長
勘定奉行シリーズで知られるOBCの創業者。70人規模で組織の壁に直面した経験から「当事者意識研修」を導入し、急成長の礎を築く。一貫して「文化」と「教育」を経営の核に据え、一つのチームとして組織を捉える。
理念を語るな、仕組みで語れ
セッションの最初のテーマは、組織の拡大や変化の局面において、トップの思いや企業理念をいかに浸透させるかであった。ファシリテーターを務める片倉氏は「トップの思いを組織全体へ広げていくプロセスで、どのような壁に直面し、それを乗り越えてきたのか」と各登壇者へ問いを投げかけた。
この問いに対し、登壇者たちは「トップが直接語るだけでは、理念は浸透しない」という認識で一致した。
1980年にOBCを創業した和田氏は、社員数が70人規模に達した際の原体験を振り返る。
「多様な人材が入社してくるようになると、それまでの阿吽の呼吸が通用しなくなり、それぞれのバックグラウンドによる異なる文化が生まれ、組織がバラバラになりかけました。その時、もう自分の限界だなと肌で感じたのです」
その限界に直面した和田氏が注力したのは、トップダウンで命令を下すことではなく、現場の当事者意識を育む教育と、組織の文化そのものを設計することだった。
「自分の人生は自分がつくる。我に責任あり」という文化を、ブログやメッセージ、そしてコミュニケーションを豊かにする様々な施策を通じて醸成していった。結果として、それが組織を再び強固に束ねる柱となり、その後の成長を支える重要な要素となったと語る。

M&Aによって異なるバックグラウンドを持つ集団を統合してきた中村氏も、「社長がつばを飛ばして理念を熱く語っても、全然浸透しない」と率直に語る。
中村氏は自らが語るだけでなく、各拠点に理念を推進するアンバサダーを見いだし、彼らを中心に波及させていくことで浸透力を高めていった。さらに、統合した事務所の既存文化を無理に自社のやり方に染めようとするのではなく、お互いの良さを取り入れながら「新しく大きな文化」を共につくっていく感覚が、理念浸透には不可欠だという。
では、どうすれば理念は自律的に浸透していくのか。その鍵は「可視化」にある。
大野氏は、「組織や人の状況は目に見えないため非常に分かりづらく、特にリモート環境下ではその傾向がさらに顕著になる」と指摘する。人材の評価に絶対的な基準はなく、重要視すべきは今担っている役割や周囲との関係性において、力を発揮できているかという視点だという。
「適材適所に配置されていないために活躍できていないだけで、役割を変えればものすごく活躍するかもしれない。あるいは、上司との相性によって本来の力を発揮できていなくても、環境を変えることで能力を発揮できるようになった事例は数多くある」と大野氏は語る。
目に見えない組織の状況を可視化し、会社ごとに全く異なる現状を正しく把握して初めて、それぞれの状況に応じた的確なソリューションを提供できるようになるのだ。
仙石氏が開発した「エンゲージメントストック」は、まさにその思想を具現化したツールだ。
仙石氏の事務所では「専門性・誠実性・迅速性」という理念を単に掲げるだけでなく、社員同士が称賛や感謝を伝える際に「どの理念に該当するか」を選択し、ポイントを送り合う仕組みを導入している。数値化しにくい他者への貢献が可視化され、貯まったポイントは現金やPayPay、Vポイントなどに交換できるため、社員は楽しみながら日々の行動レベルで理念を意識するようになるという。
経営者に求められているのは、言葉で熱心に伝えること以上に、社員が自律的に理念を「体現したくなる仕組み」を設計することなのかもしれない。
自社の強みはどの「P」か? アンマッチを防ぐ組織づくり
理念浸透の仕組みができたとして、次に問われるのは、社員一人ひとりのエンゲージメントを何によって高めるかである。大野氏は、エンゲージメントの源泉を4つのPで整理するフレームワークを提示した。
● Philosophy(理念・目的)
● Profession(仕事・事業)
● People(人材・風土)
● Privilege(特権・待遇)
大野氏は「どのPを重視する働き方が良い・悪いという話では決してない」と強調する。「重要なのは社員が求める欲求に対して、会社が自社の強みをもってどれだけ的確に適合できているかだ」と語る。
経営陣の思いと社員のエンゲージメントの源泉にアンマッチが起きている状態こそが課題であり、自社がどのPを強みとしているのかを可視化することで、次に打つべき手(理念浸透、育成、採用など)が見えてくる。

この4Pの視点は、世代間の価値観の違いを理解するヒントにもなる。
中村氏は、「食事会や飲み会などの場を設けても、今の若手は出たがらず、中堅・ベテラン層は喜んで出席する」という現状を挙げた。これは、昭和の世代が会社にPeople(人との繋がり)を求めているのに対し、若い世代は必ずしも会社にそれを求めていないことを示している。
そこで中村氏が行き着いた答えは、明確なキャリアプランの提示であった。
今の若手は、早く安定したいという欲求が強いため「4年目でここまで、8年目でこの位置を目指せる」という道筋を可視化することで、彼らは不安なく組織に定着するという。
これは、エンゲージメントの主たる源泉が、従来の「People」から「Profession」や「Privilege」の領域へとシフトしている実態を物語っている。
しかし、だからといってPeopleの価値が完全に失われたわけではない。
和田氏が実践するウェルビーイング経営は、その好例だ。ウォーキングや社員旅行、運動会といった施策は、強制ではなく自主参加を基本としながらも、極めて高い参加率を誇る。さらに、日々のコミュニケーションの基盤として、朝礼をしたり、ラジオ体操を通してメンバーがローテーションで自身の関心事をスピーチする場も自主的に設けられているという。
この朝礼やラジオ体操という一見クラシカルにも思えるワードに対し、ファシリテーターの片倉氏は、自身の見解を交えて次のように応じた。
「私の知っている上場企業でも朝礼を取り入れている。それは昭和の時代のような単に点呼をとるといった形式的なものではなく、成功したメンバーを全員で称賛(リコグニッション)したり、目標をタイムリーに共有したりする、モチベーションを高めるための場になっている。」
片倉氏が自身の知る他社事例を交えて指摘したように、和田氏の組織で行われている朝礼やラジオ体操も、決して形骸化した古い慣習の押し付けではない。メンバーが自主的に自分の関心事をスピーチし合うような、互いの横顔が見える温かい場として運用されているのだ。
また、仙石氏も、あえて採用段階から飲み会やコミュニケーションが好きな人を積極的に採用し、クライアントと飲みに行くとインセンティブを付与するなど、人と人との繋がりを楽しむ文化を大切にしている。

こうした各社の取り組みから見えてくるのは、画一的な正解は存在しないということだ。ある社員はPhilosophyに共鳴し、ある社員はProfessionの深化を求め、またある社員はPeopleとの繋がりに安らぎを見出す。経営側が多様な価値観に応える選択肢を用意できるかが問われている。
変わり続ける経営者の素直さと行動力が組織を動かす
こうした世代間の価値観の変化や多様化するニーズに対し、経営陣はどう向き合えばよいのか。片倉氏は、「世代の違いがある中で、組織のエンゲージメントを高めるために何か変えてきた施策はあるか」と和田氏に投げかけた。

この問いに対し、和田氏は単なる施策の変更にとどまらず、自身の経験を振り返りながら次のように語る。 「結局のところ、経営者自身が自らを変え続けるしかありません。ベンチャー特有の勢いだけで突っ走れるフェーズはそう長くは続きません。組織が大きくなって上場し、形が変わるごとに経営者は自らを変えなければ続かない。自分を変えることは非常にエネルギーが必要だが、行き詰まった時こそ次へ向けて自分が変わる努力をしてきた」
この言葉を受け、仙石氏も「話を聞いた時に、それを素直に受け入れて行動できる人をいかに社内につくっていけるかにこだわっている」と同調する。士業をはじめ、頭で考えてしまいがちな組織だからこそ、成功者の共通点である「いかに行動(トライアンドエラー)に移してきたか」をメンバーに伝え続けているという。
経営トップが過去の成功体験に固執せず、素直に変化を受け入れ、行動で背中を示していくこと。そうした姿勢が世代の壁を越え、社員が安心して挑戦できる心理的安全性の高い組織をつくる土台となる。
AIに負けない組織づくり
議論は、テクノロジー、特にAIと人間の関係性へと進んだ。AIの進化は、人間の仕事を奪う脅威なのか、それとも成長を加速させるのか。
中村氏は「AIに負けない会計事務所作り」を掲げ、「AIはあくまで道具であり、重要なのはAIにはできない、顧客と向き合い、心をつかんで離さないコミュニケーション能力を磨くことだ」と断言する。業務処理の時間が短縮されるからこそ、若手はより早く本質的な顧客対応が可能になる。
大野氏もまた、「AIは徹底的に活用すべきだ」と語る。AIを使いこなすことでPDCAのスピードが圧倒的に早まり、成長できる人はこれまでとは比較にならないスピードで成長する。一方で、自ら問いを立て、PDCAを回せない人間は淘汰されていくため、ここから成長の二極化が進んでいくと指摘する。
そして和田氏は、「生成AIからはオンリーワンの答えは出てこない。必ず最後は人間が判断する」と本質的な視点を提供した。どれだけテクノロジーが進化しようとも、最終的な意思決定の責任は人間が負う。
AIを鵜呑みにせず、自ら問いを立てて検証し、最終的な判断を下す。この人間ならではの思考プロセスを鍛え上げることこそが、AI時代の人材育成と言える。

会計ファイナンス人材こそ、人的資本経営の担い手へ
人的資本経営とは、制度や開示に対応するための取り組みではなく、経営者自らが変化し続け、人と組織の価値を高めていく経営そのものだ。本セッションでは、理念を語るのではなく仕組みで浸透させること、エンゲージメントを可視化し、一人ひとりが活躍できる環境を整えること、そしてAIを活用しながらも最後は人が判断することの重要性が繰り返し語られた。
AI時代だからこそ、企業価値を左右するのは財務情報だけでは測れない人の力である。人材や組織を経営資源として捉え、その価値を経営につなげる視点は、これからの会計ファイナンス領域にも欠かせない。数字を扱う専門家にとどまらず、企業価値向上を支える経営のパートナーとしての役割は、今後ますます広がっていくだろう。
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